So-net無料ブログ作成
検索選択
« 前の1件  |  -

平家落人伝説の里。落人伝説の謎に迫る〜その3

 さて、色々と楽しんできた湯西川温泉、記事の最後は、少し難しい話を。この地域一帯にまつわる平家落人伝説について興味深い資料があるのでご紹介。

平家一行.jpg

湯西川一帯に伝わる平家落人伝説

 まずは湯西川一帯に伝わる平家落人伝説をご紹介しましょう。色々なサイトで相違が見受けられますが大筋は以下の通り。

・平家一門の重盛の六男である平忠実(または忠房)が親戚の宇都宮朝綱(ともつな)を頼って落ち延びたとされている。
・その後、川治の鶏頂山に隠れ住んでいたが、一族の婦人が男子を出生、時も偶然に端午の節句だったので、のぼりに仕立て五月の空に上げたところ、平家追討使の目に止まる所となり、湯西川まで逃げ延びてきた。
・よって今でも「鯉のぼりをあげない」「にわとりを飼わない」などの風習が続いている。
・忠実公は、雪の日の狩りの日に雪が積もらない場所を発見。この近くに金銀財宝や武具を埋めた。
・それから400年近く経った1549年。平忠房公から11代目の伴対島守忠光は、この温泉と先祖の残した財宝を発見。これが湯西川温泉の起源となる。
 以上が「本家伴久のサイト」による歴史です。で、ライバル?の「平家の庄」でも同じような説明がありますが、何故か平忠実や伴氏の名前は伏せてます(笑)。そしてこの地の大類氏が財宝の一部を保管、「平家落人民族資料館」に展示しているとのこと。この大類氏も桓武平氏の流れを引く末裔という説があるそうです(平家の庄HPより)。

IMG_4941.jpg

 ではもうひとつの「平の高房」という高房神社の近くのお宿の説明から。
・平家没落で都を逃れた平貞能(さだよし)が平重盛の妹、妙子姫を連れ、親戚の宇都宮朝綱(ともつな)を頼って落ち延びたとされている。
・その後、貞能と妙子姫は釈迦が丘に、数名の家臣団は川治の里に山居する。
・川治の里で、五月の節句ののぼりが平家追討使の目にとまり、さらに栗山へに逃げる。
・この時の家臣団の長が、平忠実とも、平高房とも言われている。彼らは川俣や湯西川を定住の地と定め、温泉を開きこの地に骨を埋めた。
・彼らの墓が湯西川の高房神社となり、一族の霊を供養する丘が家塚となった。
 こんな感じですね。要約すると、 
・逃げ延びた平の落人の主役は、平貞能平忠実(または忠房)平高房ら。
宇都宮朝綱が匿ったキーマン。
・最初に隠れていた場所
(鶏頂山説と釈迦が丘説と相違がある)で、五月の節句ののぼりがきっかけとなり敵に見つかり更に逃走。
・川俣、湯西川に分散し、ここを定住の地とし、財宝などを隠す。
・この地では、見つからないよう、鯉のぼりをあげない、鶏を飼わないなどの風習が続いている。
・源平争乱から約400年後の
1549年に温泉と財宝が見つかる。
・高房神社、温泉、平家の塚、財宝の一部はこの伝説を裏付ける場所である。

 大体こんな感じ。これを元にしてなのか、色々な方のブログや旅行サイトを見ると似たような感じで紹介されています。

IMG_5004.jpg

 さてさて、史実ではどうでしょうか。

◆吾妻鑑でみる平家の落人の記録

 1185年6月、平貞能が、平重盛の妹(妙雲禅尼)を連れて、突如、宇都宮朝綱(ともつな)を頼って鎌倉方に投降にきたので、源頼朝に助命を懇願し身柄を預かったとされている。
「吾妻鑑」
 はい、平貞能さん、落人確定です。この方、筑前守・肥後守を歴任するなど、九州方面で活躍していた武将です。源氏方からすれば平家の超VIP級の人物です。
 平家の都落ちには賛同せず、京都に残って戦うことを主張していました。なので
壇ノ浦の最後の戦いには参加していません。
 この後、平家一門が都落ちしたことを嘆き、鎌倉勢が攻めてきた時に、平重盛
の遺骨を荒らされぬよう、墓から遺骨を掘り起こし高野山で匿ってもらったというエピソードが『平家物語』で語られています。
tomotuna.jpg その後は行方が分からなくなっていましたが、平家が壇ノ浦で滅亡したわずか数ヶ月後、突如、宇都宮朝綱の前に現れ鎌倉方へ投降したとのことが記録されてます。
 この時に一緒に連れてきたのが、平重盛の妹、妙子姫
(妙雲禅尼)。なので鎌倉方からすればダブル超VIPなので記録に残されたのではないかと。
 平貞能は、宇都宮朝綱とは親戚でもあったため投降先をここにしたようですが、それに加え、朝綱自身も彼に多大な恩義(頼朝が挙兵したため、京都で平清盛に4年間も抑留、
貞能の計らいにより帰国することができた)があったことから、源頼朝に必死に助命を嘆願。頼朝から「もし反乱を企てたら、お前ら滅ぼすぞ」と恐ろしい条件をつけられつつも認めらます。

 なので、この話は当時の一大事件で、ひっそりと落人になって潜伏という話ではないようです。
 その後の消息は正史にはないのですが、堂々と宇都宮に留め置くことも憚れるので、山岳部の釈迦が丘という山岳部に一旦隠居したという説が有力視されているようです。
(「花鳥風月Visual紀行」さんのサイトによる)

 さて、地元の伝承では、ここから二人は別れ、妙子姫の方は、出家されて那須へ、
貞能公は益子に向かったという話が残されています。
 
現在の那須塩原市には妙雲寺というお寺があるのですが、出家した妙子姫はここで「妙雲禅尼」となって生涯を終えたという話とお墓が残されています。
 ここの境内には、今もひっそりと平家塚が佇んでいます。そしてお寺のパンフレットにも平家の家紋が使われています


妙雲寺.jpg
妙雲寺山門

 平家の女性たちの哀しい運命は、多くの人々に語り継がれることになりました。
平家物語_03.jpg
尼となり、出家した建礼門院
平家物語02.jpg
夫の後を追い、入水する小宰相

 平貞能は益子に移住し、安善寺(浄土宗・鶏足山松林院安善寺)を創建し、宇都宮朝綱と度々行き来して親交を深めたという話が今も残されています。(『安善寺物語』より)
Cap 230.jpg

 朝綱にしてみれば
平貞能がその後、行方不明になることはあり得ないと思うのですよね。平家の残党に担ぎ上げられるのが一番困ることですから、自分の目の届くところに住んでもらうのが一番安心すると思うのです。
 なので、益子に生涯住んでいたという線はかなり有力だと思います。
 ちなみに朝綱も、余生は益子で暮らしたとのこと。お互いに度々会ってお茶でも飲んで余生を暮らしていかと思うとしみじみしますな。

安善寺.jpg
益子の安善寺

 なので、
平貞能公の線は消えそうです。となると、一緒に連れてきた家臣団の中の平家たちでしょうか。残る伝承は、平忠実(または忠房)、平高房の二人・・・。

◆平忠房(ただふさ)とは?

 平重盛の六男とされ、『平家物語』よると、屋島の戦いで敗れた後、落ち武者となって潜伏。その後、壇ノ浦で平家が滅亡すると、平家の残党をかき集め徹底抗戦。頼朝の投降を受けて鎌倉へ出頭するものの、京都への送還の途中で斬られたとあります。
 あれ、死んでんじゃん。 っ゚д゚)
 これは『吉記』という書物にも、首を斬られた事実とその日が記載されているので事実のようですね。

平家物語_00.jpg
平家の総大将、宗盛の処刑
 
 なので、湯西川伝説によると、そのまま記載するのは憚れるのか分かりませんが、名
を忠実と改め、藤原朝綱の元に身を寄せて、平家復興の準備をしたとのこと(ゆこゆこ温泉・宿。予約サイトより)。
 うーん、これは無理があるような・・・。藤原朝綱とは宇都宮朝綱のことですし、復興の準備などしていたら、それを口実に宇都宮家自体が騒乱に巻き込まれます。そもそも平貞能を自分たちの滅亡を賭けて必死で懇願した朝綱公とはイメージが異なりますね。
 それとこの記事で紹介されている「米のとぎ汁が流れてくるのを見て隠れているのが見つかった」という話は、別の源有綱の有名なエピソードです(源有綱も伝承ですが)。同じ落ち武者ということで混同されていますね。
 こうなると平忠房(忠実)の線も歴史から消えて伝承の世界になってしまいます。

源三窟.jpg

 那須塩原には源三窟という源有綱が逃げ込んだという鍾乳洞もあります。源氏も平氏もみんな逃げ込んできたこの周辺(笑)。隠れるには好都合な場所なんでしょうな。それにしても苦労するのは宇都宮朝綱・・・・。


では残る平高房とは?

 この平高房という人物に至ってはどこにも記録が残されていないようです・・・。この名前の元となっている高房神社ですが、御祭神は藤原高房(795〜852)です。
 この方、平安時代の初期の実在の人物で抜群の才能を発揮して統治をした方で、彼の領地内では盗賊がいなくなってしまったほどとも言われている方。

藤原高房.jpg
藤原高房


 なので、その後も信望が厚く敬う民が絶えなかったとされています。かつての湯西川一帯は藤原領内であったので、この方を神様として祀ったのでしょう。
 ということは、平家ブームがこの一帯に起きた時に平家の縁の神社として便乗したか・・・(;^ω^)

高房神社.jpg
湯西川温泉の高房神社

◆平家一門の落人はあったのか。

 こうしてみると、一体落ち延びた平家とは誰なのか?どれも信憑性の低いものばかりですが、それゆえに伝説とされているのかもしれません。
 ただ、名前が知られていなくても平家方の武将や平氏の一族がこの地に逃げ込んで潜伏していた可能性は高いと思います。
 というのも、宇都宮氏の領地は
山岳地帯も多く、落ち延びてきた平家落人が多数潜伏している噂がありました。特に会津街道周辺には数百名規模の平家残党が終結する事態にもなったそうで(花鳥風月Visual紀行より)。

平家落人の予想図(各種伝承から)
逃亡ルート.jpg

 特に旗揚げしてもう一度平家を復興させようとする動きがあれば、この地に落ち延びてきたVIP級の
平貞能公か、妙子姫と接触を試みるか、担ぎ上げて残党の結集を行おうとすると思うのです。
 もし平家残党が集結しているという動きがあれば、疑り深いことで有名な源頼朝のことですので、宇都宮氏にしてみれば非常にヤバイ事態になります。
 なので、一旦は噂の広がらない、山奥の釈迦が丘あたりに住まさせたのですが、そのうちに噂を駆けつけた残党たちが周辺にも潜伏し始め、ちょっと不穏な動きが出てきたので、目の届く場所へ移住させたのではないかと。
 もしかすると、このVIP級の二人と自分たちを守るためにも、一度、平家残党を追い払う必要があったのではないかと想像してしまいます。この残党を追い払った事実が、この一体の平家落人伝説の基になっているかもしれませんね。

 この他にも平清房[清盛の八男1184年一の谷合戦で戦死)の郎党が、平家再興のために川治周辺に埋蔵金を埋めたとする伝説もあります。

◆各地に存在する平家の落人伝説の真偽


 ここまできて、平家落人伝説を全部ひっくり返すような説を(;^ω^) 。
 柳田國男の『伝説』(岩波新書)
平家落人伝説の多くが捏造である」という説が提唱されています。
 例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代(1573〜1603年)に突然発生するのですが、柳田氏の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植しているとのこと。
mokujishi.jpg 木地師とは木工品を加工したり、製造する職人集団なんですが、木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書(権利の保証書とか)を創作するのにも長けた人々であったそうです。
 元々は石川加賀の方で森林の伐採を許された集落民だったらしいのですが、戦国時代に朝倉氏の庇護がなくなると各地に散っていったとされています。幕末には
木地師は東北から宮崎までの範囲に7,000戸ほどもいたそうで。

 まあ、伐採を自由にできる権利を持つ保証書とかの書類とかですね。これをもって各地に行くと仕事がしやすかったのは容易に想像できますし、中にはそのまま定住した人々もいました。
 木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田氏は考察しています。

 身分の箔をつけるために偉いところの家系につなげたり、捏造するのはよくやる話ではあります。戦国武将などの有名武家でさえ家系を色々といじって平氏や源氏に繋げていますので、その配下なら知る良しです。江戸時代には系図を作り上げることを生業にした系図師もいたそうですので(;^ω^)

平家物語.jpg

 なので、平家の落人伝説がある地域で、この木地師集団が各地に広がっていった1600年の時代あたりから伝説が出てきてたり、木工品などの名産があり、平家の落人伝説に類似した地元の伝承があるならば、ちょっと怪しいと思って調べてみる必要があるかもです。

 実は、この平家の落人伝説とそっくり同じ話が、この湯西川にも残されていたのです。
 最後まで書き上げようと思ったけど時間が足りなくなったので、また続けちゃいます! ><;

妙雲寺_01.jpg
妙雲寺の山から見た那須塩原

伝説の中心地の高房神社

妙子姫の終焉の地、妙雲寺

平貞能ゆかりの寺、安善寺

 

安善寺物語―宇都宮朝綱と平貞能の友情

新品価格
¥864から
(2016/12/9 03:49時点)


平家物語 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集09)

新品価格
¥3,780から
(2016/12/9 03:49時点)

新 語りべが書いた 下野の民話

新品価格
¥1,080から
(2016/12/9 03:51時点)

« 前の1件  |  -
Copyright © 1/144ヒコーキ工房 All Rights Reserved.
一眼レフの特徴